
こちらは「茶道の歴史とは?」
「お茶はどこから来てどのように広まったの?」
という疑問をお持ちになった方へ、少しでもお手伝いができるように心がけて書いた記事となります。
私は「茶道の歴史とは?」と考えるようになったのは、お茶室で感じる季節感や、設えに目を向けられるようになり余裕が出てきてからのことでした。
お茶の歴史・文化がなぜここまで残っているのか。
茶道の歴史と今日まで日本の文化に根付いてきた理由について、分かりやすくお伝えしてみたいと思います。
茶の伝来と歴史の流れ
〜茶を広めたきっかけは、その時代の宗祖たち〜
茶の伝来 | 奈良・平安時代 | 最澄 空海 | 中国(唐)より茶種を持ち帰るが、上流階級のみ手に入るものであったため広がらずに廃れる |
抹茶の伝来 | 鎌倉初期 | 栄西 | 中国(宋)より茶種を持ち帰り、抹茶を普及させる |
宗祖が仏教を学ぶために中国へ留学しますが、茶を持ち帰り日本に普及させようと試みています。
お茶の始まりをつくったきっかけとなる人物は宗祖であったことが分かります。

茶道では「一期一会」などの禅語が書かれていることが多いです。
「茶道と禅」の繋がりが深いのは、元々茶を伝えたのが宗祖たちであったからかもしれません。
〜時代と共に変化する茶の役割〜
鎌倉前〜中期 | 禅宗寺院を中心に広まる | 薬として飲まれる |
鎌倉後期〜南北朝時代 | 武家階級に広まる | 娯楽として楽しまれるようになる |
室町時代 | 庶民にも広まる | 精神を重視・わび茶のスタイルを確立 |
茶というものが「薬」から「娯楽」として、また現在の茶道に繋がる形へと変化していきます。

次第にお茶が生活の一部に!
茶の湯のはじまりに関わる三名の茶人
室町時代には茶の湯が浸透し、わび茶のスタイルが確立されています。
かの有名な足利義政も、茶に関わりのあった人物でした。将軍であったにも関わらず、技術や才能をもったものをサポートしました。
また建造物である金閣寺で、有名な茶人に茶会をさせていました。
さらに現在の茶道という形をつくりあげるのには切っても切り離せない三名の茶人が現れます。
それが村田珠光・武野紹鴎・千利休です。
室町時代中期の茶人、僧侶。 茶の湯の創始者。
これまでの広間で行われていた贅沢な茶会を、四畳半のような狭い茶室での茶会へ変化させていく。 また中国の唐物だけではなく、日本製の道具を取り入れ使用する。
戦国時代の堺の豪商。 京都の大徳寺で禅を学ぶ。
珠光の流れを汲んだ、わび茶を完成。
和歌にも茶の精神を見出し、歌・禅・茶を融合した新たな茶の湯をつくりだす。
千利休の師匠。
戦国時代の堺の商人。 武野紹鴎の弟子。
武野紹鴎のわび茶を受け継ぎ、わび茶を大成させる。
広間での茶を守りつつ、小間(四畳半以下・一畳半〜二畳)を作成。
京都の妙喜庵に「待庵」を作る。現在国宝に指定されている。
信長の茶頭(茶道の師匠)として仕える。
この三名の茶人の活躍により、茶の湯というものが確立されていきます。
そして茶の湯文化を、武家・庶民へ大きく広めることに関わる戦国武将が現れてきます。
波乱の戦国時代と親しまれる茶の湯
茶の湯を戦いに利用した織田信長

茶の湯を広めた戦国武将といえば「織田信長」「豊臣秀吉」が有名。
でもなぜこの2人が茶道と千利休と関わりを持つんだろう?
とにかく「茶道」をこよなく愛していた織田信長。
千利休を茶頭(茶道の師匠)に仕えた。
茶会を主催し、「茶道具を褒美」として使う新しい形を取り入れる。
「織田信長から頂いた茶道具」というものに価値が生まれたことから、武家庶民にも茶道が広まることにつながった。
「なぜ織田信長が茶道を好み、よく茶会を開いていたか」という理由には、茶が好きという理由の他に武士たちの精神面を読み取ることに大きく影響していると思われます。
戦国時代はその名の通り下克上の世界であり、昨日まで仲間であった物が寝返ることも珍しくなく、そのような存在には細心の注意が必要になります。
そこで信長は茶を利用します。
千利休は武将など「人の心の動き」を読み取る能力に長けている存在です。
信長は出陣の前に茶会を開催し、狭く静かな茶室という空間に千利休を同席させることで、武士たちの心の揺れを感じ取る場所として利用したのです。
天下統一を果たした織田信長は、結果的には家臣であった明智光秀に襲撃され炎に包まれた本能寺で自ら自害します。
しかし狭く静かな茶室で行われる茶会を利用して、相手の心理を見破ろうと企む織田信長の戦略、さすが天下統一を果たした戦国大名です。

稽古場で師匠が「お点前をみていると何かあったというのが分かるよ。」とおっしゃっていたことを、思い出しました!
心の動きは、知らず知らずにお点前に出てしまうのです。 それもまた面白い。
派手好きな豊臣秀吉、同じく茶を好んだ利休へ切腹を命ずる
信長と同じく茶の湯を好み、千利休を茶頭に仕える。
好んで多くの茶会を開催。
なかでも、京都の北野天満宮で開かれた「北野大茶湯」が有名。
大阪城につくられた、黄金の茶室や自慢の茶道具が披露される。
豊臣秀吉の天下統一後、千利休に切腹を命ずる。
織田信長の後を継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉。
同じく茶の湯を好み千利休を仕え茶会を開催していましたが、歴史を遡ってみると次第に豊臣秀吉と千利休は不仲になっていくことが分かります。
京都で開催された「北野大茶湯」は、秀吉の自慢の茶道具を公開したり、組み立て式であった黄金の茶室を大茶会で披露しています。
派手好きでいかにも権力を振るうようにもみえる茶会は、千利休の「侘び寂び」とは懸け離れたものでした。
次第に秀吉と千利休との間の溝が深まっていきます。そんな時事件が起こります。
千利休の自宅近くにある大徳寺(織田信長の大葬儀が行われた場所)の山門である金毛閣を造り変える際、千利休が多額の寄進をしたと言われています。
大徳寺の名僧である古溪宗陳や利休を慕っていた弟子たちが、その山門の二階部分に「千利休の木像」を置くこととしました。
それを知った豊臣秀吉は、山門をくぐる際に利休の足の下を通らねばならないことに腹をたて切腹を命じます。この事件により千利休は生涯を終えます。
しかし、千利休の死を豊臣秀吉は後悔していたと言われています。

戦国の時代に行われる茶の湯と、今の時代に行われる茶道の意味は大きく違います。
しかし、千利休の「侘びさび」の精神や、ムダを省いた茶の湯の世界は今も継がれていることがやはりスゴイ!
形を変えずに残っているのは、利休のスタイルが心の拠りどころであり形を変えてはならないと多くの人が感じとっていたからかもしれません。
江戸・明治以降の茶道
茶道と呼ばれるようになったのは、江戸時代あたりからです。
千利休が確立した茶の湯は「千家」という流派として引き継がれていきます。
茶道の流派はたくさんありますが、千家の流れを継ぐ代表三千家ができます。
表千家 | 千 宗左 茶室〜不審庵〜 |
裏千家 | 千 宗室 茶室〜今日庵〜 |
武者小路千家 | 千 宗守 茶室〜官休庵〜 |
茶道を守っていくため「家元制度」を取り入れ、習得した物には免許を出すこととなり、習い事として広まっていきます。

実は茶道は江戸幕府の崩壊やその後、西欧文化が日本に広まることなどから、急激な衰退を迎えることになります。
しかし、三千家と共に有力財界人が茶道をサポートします。
その後三千家は茶道=教養として広めていくこととなります。
こうしてこれまでの遊び・娯楽であった茶道は、有名女子大学の教養科目として組み込まれ始めます。
そして今現在、明治以降の茶道という形が受け継がれています。
ヒトコト
お茶をしていると中国など海外からも様々なものを取り入れ、ゆっくり時間をかけて「日本らしく・日本の物や文化として」変化させていることを感じます。
お茶だけを切り取って断片的に見た物ですが、やはり歴史は深いです。
そしていつの時代も茶道を心のよりどころにし、楽しむ人がいたおかげで今も茶道が残っていると改めて感じることができました。
お茶を通して作法を学び、おもてなしの心を感じ、季節の移ろいを楽しむ茶道。
時間をかけても全てを把握するまでには何十年とかかるでしょう。
お茶は本当にいいものです。
最後までご覧くださりありがとうございました。

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